アルベール・カミュ『異邦人』(新潮文庫/1963)
世界規模で最高峰のフランス文学。彼のこたえは世界に向けられたある「望み」。
――私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。
「きょう、ママンが死んだ」というあまりにも有名な1行で始まる今作はムルソーという男を主人公に添えて始まる。彼は母の訃報を聞き、会社に休む旨を伝え、不満な顔をされると「私のせいではないんです」と応え、淡々と葬儀に向かう。一見ふつうの流れに思えるだろうが、彼は、母親の死に顔も見ず、死体置き場では煙草を吸い、葬儀屋から「(母親は)年をとっていたのかね?」と母の年齢を訊かれても彼はそれを知らないから「まあね」と応える始末。彼にとっては肉親の死も「ああそうですか」というような態度を見せ、まさに淡々と葬儀を済ませるのだった。そしてその直後に出会った女性と関係を結ぶなど人間としての道徳に欠けるような感覚的に行動する姿勢が目立つが、これは人間らしいのかそれとも人間として不相応なのか。
冒頭のあらすじをつらつらと書いたがこの作品は二部構成になっており第一部と第二部に分けられる。
第一部ではムルソーの人間性と云うか、性格がはっきりと描写され、第一部の終盤で起こる事件が第二部に大きく関わってくる。有名な文学作品なのでネタバレをしようかとも思ったが(文庫の裏表紙のあらすじには結末まで載っている) 、この場のポリシーに反するのでやめるにしても、ムルソーは「私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。」との名文の通り、自らが興味を持たなかった世界――好きなように生きてきたムルソーが見向きもしなかった世界――に心を開くのである。興味深いのはかのマザー・テレサが「好き」という感情の対極に「嫌い」の代わりに配置した「無関心」という状態をカミュは「優しい」と形容した点。これは読んだ個々人にそれぞれ意味を感じ取ってもらいたい。
ムルソー以外にも物語には象徴的な人物が登場する。犬飼いのサラマノは脇役ながら読者の記憶に残るであろうし、第二部に登場するある名もなき青年も物語を読み終わった後も印象に残っている。作者カミュはわずか130ページ弱の空間に彼のイメージする世界をまるで実際の世界のようにに創造したのである。
ではその世界の「核」とは何か――。
聡い方ならご存知だろうが、カミュの作品は一貫して「不条理」がテーマとなっている。本作『異邦人』も然ることながら他の著作『シーシュポスの神話』ではもっとわかりやすい不条理について述べてある。しかし、これらどちらの「不条理」にも最後には救いが描かれてあるのはカミュの魅力の最たるものだろうと思う。現に、私が読んだ他の同じ毛色の作品――太宰治『人間失格』、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』、フランツ・カフカ『変身』など――に比べるとこの『異邦人』は比較的ではあるもののムルソーは大庭葉蔵、ハンス・ギーベンラート、そしてグレゴール・ザムザよりも幸せな人生を歩んでいるのは確かだ。それはムルソーは他の彼らとは違って彼を束縛するものがないが故に、彼は感覚的に生き、その結果「不条理」を背負わされるからだ。つまりは自業自得というわけであるが、物語の終盤ムルソーはそれを受け、自身の感情を爆発させる。自らの感覚的な生き方をムルソー自身が確固たる信念を持って訴えるのである。私はそのラスト4ページが堪らなく好きであり、ここに本作のすべてが集約されているように思える。
繰り返しになるが文庫本裏表紙のあらすじには物語全体の概要が載ってしまっているので、全くネタバレなしで読みたいならそれを読まないことをおすすめします。
最後に蛇足だけれども新潮文庫版の『異邦人』をはじめとするカミュの著作は以前は背表紙の文字がゴシック体で記されていたけれど、『最初の人間』が発売されたタイミングでそれ以降に重版されたものの背表紙は他の新潮文庫と同じように明朝体で記されてる。何故なのだろう……。
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次回は米澤穂信『満願』を予定しています。
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